中国語の多読を開始して2年になります。
本腰を入れて原書を読み始めたのが、2年前の今頃。
神保町の内山書店で「赴宴者」と「低碳之路」を買いました。
それから、2年間で55冊の本を読みました。
中国語を始めて5年。話す中国語はおそまつなままですが、
頭の中には大分インプットされてきただろうか、と思います。
懲りずにせっせと原書の多読を続けていられるのには、
一つには楽しさもありますけども、もっと大きな理由は、ひそかな確信でしょうか。
多読を続けていけば、自分の語学力はきっと上がっていく。
そう思っています。
ただし、多読だけよりも、もっと強力な方法についても確信があります。
それは、「文章の暗記」+「多読」です。
これが最強のやり方だと思っています。
今は力量と気合不足で暗誦には手を出せていませんが、
暗誦も非常に大事な方法だと思います。
といいますのは、今多読をしていると、必ず
「暗誦」+「多読」の効能を実感することが多いからです。
学習初期の頃、よくテキストの文章を暗記していました。
その時覚えた文が、未だに自分の中国語表現の多くを占めていると思うのですが、
当時は片っ端から覚えて言った表現でも、忘れてしまったものは多いです。
どこで思い出すかというと、原書を読んでいて、同じ表現が出てきたときです。
テキストを暗記していなくて、うっすら記憶に残っている表現も、
原書で出くわすと、とても印象に残ります。
それが暗記した表現だったら、脳裏に焼きつく、といっても過言ではありません。
原書を読んでいると、ふと、
「これまでインプットしたものを脳内で再整理しているみたい」
と思わされることが最近多いです。
意識的な再整理ではなく、受動的な再整理です。
力をいれずとも、必要な表現は向こうから何度もやってくる、そんな感じです。
たまに成語テキストで勉強して、頭に残っている成語が原書で出てきたら
「一生忘れないだろう」と確認するほど、インパクトがあります。
それで一度で覚えた成語が、“居心叵测”。
今は文章の暗記はできていませんが、
同じ表現が出てくる度に、多読こそ・・・・!と確信を深めています。
多読の効能は他にもあります。
①語感が身につく
②辞書には絶対出てこない表現を学べる。しかもそれは、中国語でよく使われるものだったりする。しかし辞書にも市販のテキストにもない。
③内容に応じた言葉・表現の選び方の感覚がわかってくる。内容に応じた難易度の文章の選び方・選び具合がわかってくる。
①の語感。
これは文脈を離れたところでの暗記作業で会得するのはかなり難しいのではないだろうかと思っています。
語感にも2つ意味があります。一つは、前後の文脈から知らない単語の意味を推測する力、もう一つは、似た意味を持つ動詞の微妙な意味の違い、単語の使い分けを体得する力。
前者はよく言われますが、私は後者の方が重要だと思います。
わからない単語は辞書で調べることができます。使い分けに限っては、一番良いのは「身体(感覚)で覚える」のが一番かつ最短かつ確実と思うからです。後者を体得したら、文法的な理屈は不要となるのではないでしょうか。私が原書の多読にこだわるのも、この方法を手放すことができないのも、似た言葉を使い分ける感覚を身につけられるところが大きいです。
だからこそ、非ネイティブの方が書いた添削されていない文章を読むのが、自分には参考になることが多いです。
いわば、非ネイティブの作文はとっても良い教材です。
②については、原書を読み始めてまもなく気がつきました。
初期の頃、講談社の辞書を使い倒したことがあります。講談社の単語の例文にどの程度まで載っているか、大体のところは理解しました。慣用句として載っていなくても、単語の例文の中にわからない表現がのっていて、それで解決できることはありますが、それにさえも載っていない表現というものがどうやらある、ということを原書で知りました。
1冊、1冊と読む毎にそれを実感するので、以来、市販の参考書やテキストからも遠ざかっていきました。
これらは始めは意味がさっぱりわからないものばかりです。
中国人の友人に聞いても、しっくりくる回答がない。そのため、放置しました。
すると、どうやら中国語でよく使われる表現は度々出てきます。それが使われる文脈で、次第に意味がつかめてきました。さらに、どうアレンジしてよいかも、原書で色々目にすることができます。
辞書・テキストで学べない表現は原書ででてくる、しかもそれは放置していても自然と意味がわかるようになる、ということがわかりました。
③
原書といっても、ジャンルは様々です。
小説、エッセイ、紀行文、ルポタージュ、論文など。
そのジャンル、そして作者に応じて、文章のやわらかさ、堅さが異なります。
原書1冊のはじめの数ページ読むと、書き手の文章のやわらかさと選ぶ言葉の難易度が想像できます。
最近うすうす感じているのは、文章を書く時は基本、シンプルでいいのではないか、ということです。
大部分の原書は基本的な表現が多く、数行の簡易な描写の後、たまに成語がぽつりぽつりと出てくるほど。
余秋雨や毕淑敏の文章は、非常に格調高いもので、成語もたくさんでてきますが、
それ以外の大部分の原書で目にする文は、「シンプル」がベースにあるように思えます。
最近読んだ「小岗村的故事」も「独家披露」も「暗访十年」も、とってもシンプルです。
難しい表現は少ないです。
もちろんこれらの作品で出てくる表現のほとんどを、自然に使いこなせるわけではありませんが、
それでも「なんだ、こんなにシンプルなのか」と思わされます。
これも、文章を書く上でどのような表現を使うか、どれくらい成語を使用するか、どの単語を使用するかの見えないバロメーターになるわけですが、これも多読によって次第にわかってきたものだと思います。
多読のメリット、きっと他にも色々でてくると思いますが、今日は思いついたのを書いてみました。
当初は多読により語感が身につく、ということは予想していましたが、
その他の上記に書いたことは自分でも考えつきませんでした。
一言でいうと、「バランス」でしょうか。
これは身についたとはいえませんが。
以前の記事で100冊読了する頃にはレベルアップを実感できるかもしれない、と
書いたことがありますが、今は全然そんな気がしません。
語学の力がつく以外のところで、上記に書いたことなど、感じること、
発見することは色々ですが、中国語の底力アップはまだまだのようです。
暗誦も取り入れながら・・・前に進んで行きたいですね。。
さて、原書の読み方も、やり方は人それぞれと思いますが、
近日中に私の原書の読み方についても紹介させて頂きますね。
本腰を入れて原書を読み始めたのが、2年前の今頃。
神保町の内山書店で「赴宴者」と「低碳之路」を買いました。
それから、2年間で55冊の本を読みました。
中国語を始めて5年。話す中国語はおそまつなままですが、
頭の中には大分インプットされてきただろうか、と思います。
懲りずにせっせと原書の多読を続けていられるのには、
一つには楽しさもありますけども、もっと大きな理由は、ひそかな確信でしょうか。
多読を続けていけば、自分の語学力はきっと上がっていく。
そう思っています。
ただし、多読だけよりも、もっと強力な方法についても確信があります。
それは、「文章の暗記」+「多読」です。
これが最強のやり方だと思っています。
今は力量と気合不足で暗誦には手を出せていませんが、
暗誦も非常に大事な方法だと思います。
といいますのは、今多読をしていると、必ず
「暗誦」+「多読」の効能を実感することが多いからです。
学習初期の頃、よくテキストの文章を暗記していました。
その時覚えた文が、未だに自分の中国語表現の多くを占めていると思うのですが、
当時は片っ端から覚えて言った表現でも、忘れてしまったものは多いです。
どこで思い出すかというと、原書を読んでいて、同じ表現が出てきたときです。
テキストを暗記していなくて、うっすら記憶に残っている表現も、
原書で出くわすと、とても印象に残ります。
それが暗記した表現だったら、脳裏に焼きつく、といっても過言ではありません。
原書を読んでいると、ふと、
「これまでインプットしたものを脳内で再整理しているみたい」
と思わされることが最近多いです。
意識的な再整理ではなく、受動的な再整理です。
力をいれずとも、必要な表現は向こうから何度もやってくる、そんな感じです。
たまに成語テキストで勉強して、頭に残っている成語が原書で出てきたら
「一生忘れないだろう」と確認するほど、インパクトがあります。
それで一度で覚えた成語が、“居心叵测”。
今は文章の暗記はできていませんが、
同じ表現が出てくる度に、多読こそ・・・・!と確信を深めています。
多読の効能は他にもあります。
①語感が身につく
②辞書には絶対出てこない表現を学べる。しかもそれは、中国語でよく使われるものだったりする。しかし辞書にも市販のテキストにもない。
③内容に応じた言葉・表現の選び方の感覚がわかってくる。内容に応じた難易度の文章の選び方・選び具合がわかってくる。
①の語感。
これは文脈を離れたところでの暗記作業で会得するのはかなり難しいのではないだろうかと思っています。
語感にも2つ意味があります。一つは、前後の文脈から知らない単語の意味を推測する力、もう一つは、似た意味を持つ動詞の微妙な意味の違い、単語の使い分けを体得する力。
前者はよく言われますが、私は後者の方が重要だと思います。
わからない単語は辞書で調べることができます。使い分けに限っては、一番良いのは「身体(感覚)で覚える」のが一番かつ最短かつ確実と思うからです。後者を体得したら、文法的な理屈は不要となるのではないでしょうか。私が原書の多読にこだわるのも、この方法を手放すことができないのも、似た言葉を使い分ける感覚を身につけられるところが大きいです。
だからこそ、非ネイティブの方が書いた添削されていない文章を読むのが、自分には参考になることが多いです。
いわば、非ネイティブの作文はとっても良い教材です。
②については、原書を読み始めてまもなく気がつきました。
初期の頃、講談社の辞書を使い倒したことがあります。講談社の単語の例文にどの程度まで載っているか、大体のところは理解しました。慣用句として載っていなくても、単語の例文の中にわからない表現がのっていて、それで解決できることはありますが、それにさえも載っていない表現というものがどうやらある、ということを原書で知りました。
1冊、1冊と読む毎にそれを実感するので、以来、市販の参考書やテキストからも遠ざかっていきました。
これらは始めは意味がさっぱりわからないものばかりです。
中国人の友人に聞いても、しっくりくる回答がない。そのため、放置しました。
すると、どうやら中国語でよく使われる表現は度々出てきます。それが使われる文脈で、次第に意味がつかめてきました。さらに、どうアレンジしてよいかも、原書で色々目にすることができます。
辞書・テキストで学べない表現は原書ででてくる、しかもそれは放置していても自然と意味がわかるようになる、ということがわかりました。
③
原書といっても、ジャンルは様々です。
小説、エッセイ、紀行文、ルポタージュ、論文など。
そのジャンル、そして作者に応じて、文章のやわらかさ、堅さが異なります。
原書1冊のはじめの数ページ読むと、書き手の文章のやわらかさと選ぶ言葉の難易度が想像できます。
最近うすうす感じているのは、文章を書く時は基本、シンプルでいいのではないか、ということです。
大部分の原書は基本的な表現が多く、数行の簡易な描写の後、たまに成語がぽつりぽつりと出てくるほど。
余秋雨や毕淑敏の文章は、非常に格調高いもので、成語もたくさんでてきますが、
それ以外の大部分の原書で目にする文は、「シンプル」がベースにあるように思えます。
最近読んだ「小岗村的故事」も「独家披露」も「暗访十年」も、とってもシンプルです。
難しい表現は少ないです。
もちろんこれらの作品で出てくる表現のほとんどを、自然に使いこなせるわけではありませんが、
それでも「なんだ、こんなにシンプルなのか」と思わされます。
これも、文章を書く上でどのような表現を使うか、どれくらい成語を使用するか、どの単語を使用するかの見えないバロメーターになるわけですが、これも多読によって次第にわかってきたものだと思います。
多読のメリット、きっと他にも色々でてくると思いますが、今日は思いついたのを書いてみました。
当初は多読により語感が身につく、ということは予想していましたが、
その他の上記に書いたことは自分でも考えつきませんでした。
一言でいうと、「バランス」でしょうか。
これは身についたとはいえませんが。
以前の記事で100冊読了する頃にはレベルアップを実感できるかもしれない、と
書いたことがありますが、今は全然そんな気がしません。
語学の力がつく以外のところで、上記に書いたことなど、感じること、
発見することは色々ですが、中国語の底力アップはまだまだのようです。
暗誦も取り入れながら・・・前に進んで行きたいですね。。
さて、原書の読み方も、やり方は人それぞれと思いますが、
近日中に私の原書の読み方についても紹介させて頂きますね。